式内・県社 御形神社御由緒記

御形神社拝殿

【御神徳】

 開拓の祖神・縁結び・病気平癒・厄除けの神様

【所 在】

 兵庫県宍粟市一宮町森添二八〇番地

【社 名】

 当社は「御形」神社と云い、通称として「たかみさん」「県社」とも云います。

【御祭神】

 (中央)葦原志許男神 (左殿)神素戔嗚神・高皇産霊神 (右殿)月夜見神・天日槍神

【末 社】

 佐閉神社(右側) 日吉神社(左側)

◆祭神名の意味 「シコ」は「強い」という意味で、御方の里の強い男の神様と云うことです。今も角界で「四股を踏む」、「四股名をもらう」などが使われています。                                                  

【社 紋】

 抱き茗荷。神仏の加護を冥加と云い、冥加は茗荷に通じる。

【播磨国風土記の御方の里】   

 この神様はこの御方の里を初め播磨一円、そして但馬の一部も開拓され、蒼生をも定められて今日の基礎を築かれました。やがて天日槍神が渡来して国争いが起こり、二神は黒葛を三條づつ足に着けて投げられたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條は但馬の気多(気多神社)に、一條は養父郡(養父神社)に、そして最後はこの地に落ちたので、地名を三條(三方・御形神社)と呼ぶようになりました。また、天日槍神の黒葛は全部但馬に落ちたので,その地の出石に行かれて今に出石神社と云います。やがて葦原志許男神は自分の務めを果たされた記念に、愛用の杖を形見として刺し植えられたことから当社の社名「御形」は形見・御形見から起こりました。その刺し植えられた所にお社を建てたのが当社の創祀です。

【神社の遷座】

 奈良時代宝亀3(772)年、山神社の森に一夜の間に一抱えに余る杉が鼎立するという霊夢を里人数人が見て、これは神様の当地への御遷座の所望だろうと解して、早速に社殿を造営しお祀りしたのが当地での起源です。

【延喜式】

 平安時代、延長5年(927)成立の法令集。その9・10巻は「神名帳」と云って全国の大社492社と小社2640社が登載列記されていて、それらを「式内社」と呼んでいます。当社は小社に属します。

【神社の再三建立】

 室町時代大永7(1527)年、3度目の火災により焼失した後、再建されたのが現在の本殿です。本殿裏に三つの家紋が飾られていて、再建に尽力した豪族のものと思われます。

【郷社から県社へ】

 明治6(1873)年郷社となり、同19(1886)年県社格へ昇進しました。明治36年より39年に境内の大模様替えを実施、当社への参道を新設しました。神饌幣帛供進を頂いたのは明治43年10月10日からです。

【重文指定と御遷座1200年祭】

 ご本殿は三間社流れ造り、檜皮葺、昭和42(1967)年6月15日、室町時代の様式をよく伝えているとして国指定の重要文化財となりました。これを承けちょうど御遷座1200年が昭和47年に当たっていたため、昭和46~47年度に解体復元工事を行い、室町時代の見事な彫刻や繊細な組み物が蘇りました。

【代表的な彫刻】

 梶の葉と筆、藪に蛇、鯉の滝登りなど。

【御遷座1225年祭】

 御遷座1225年は平成9年。透き塀屋根の銅板葺き替え、平成11年上下水道工事とトイレ新築。ただ、平成7年の阪神淡路大震災の影響で、本殿の屋根替えを予定より6年遅れて、平成15年~16年度の2カ年で実施。

【御遷座1250年祭】

 御遷座1250年は令和4年。御垣内への進入路、透き塀の修理、授与所新築、百人一首絵馬の保存修理、御旅所の新設などを実施。

【余録】

 祭神の訂正について 明治36年1月8日付け、変更許可

 

(中央)高皇産霊神 (右殿)天日槍ノ神・葦原志許男神 (左殿)月夜見ノ神須・佐之男神

 

 上記の通り、主祭神に高皇産霊神をお祀りしていたので、「高見大明神」とも呼ばれ「タカミ」さんと云う通称が出来ました。それは地名の「ミカタ」の逆さ読みとも通じ合っているようです。祭神変更の原因は、「播磨国風土記」の出現によるものです。715年頃に編述されたと言われるこの風土記は、京都の三条西家に転写本が残されていましたが、江戸末期になってようやくその存在が知られ、広く流布するようになりました。ところがその中の「御方の里」に登場する神々の中に、主祭神の高皇産霊神は登場していませんでしたので、祭神訂正となりました。